カニ缶にドラマあり食べもの
20120328
缶詰の王者、といえばカニ缶。昔からその地位は変わっていません。中身も、値段も。
さまざまな種類があります。たらば、ずわい、ワタリガニといったカニ自体の種類に加えてフレークなのか、ある程度固まりになった肉なのか、によってもかなり値段が違います。高いものは1缶3,000円以上もしますから、ケース単価は数万円?倉庫でなく「金庫」に置いておきたいくらいのものですね。
以前いた会社で、研修期間を終えた私たち新入社員に、打ち上げでカニ缶を振る舞ってくれたことがありました。太い脚の肉がごろごろ入った見るからに高そうなやつで、マヨネーズをつけて頬張った嬉しさは今でも覚えています。
3月は年度末ということで、施設などの給食では消化しきれていない予算があるといって、カニ缶をいくつも購入いただくことも(以前は)時々ありました。売上的にはありがたかったですよ。最近ではあまりそんな話も聞きませんが。
もう20年近く前のこと、JCの交流研修船でウラジオストックを訪れたことがあります。事務局の私たちはほとんど観光するような時間もなかったのですが、街の商店で高級そうなチャトカ(ブランド名)の大きなカニ缶を見つけ、買って船の中で仲間と一緒に食べてみました。
これがオール脚肉ごろごろの素晴しいやつで、よしもう一度あの店に行って土産に買い占めてこよう!ということになったのですが(確か2000円位でした。あれが2000円なら安い)行事がびっしり詰まっており、全然自由時間がなくお店に行けません。がっかりしていたところに、ひそひそと怪しい声が…
ウラジオストック港の人ごみの中、現地の人物が私たちの袖を引っ張ってカニ缶やキャビアの瓶を見せながら「カニ、センエン。キャビア、ニセンエン」。まさしく昨日食べたあの缶です。しかし乗船口の前には税関があり、手荷物検査で発見されれば正規レシートのない禁制品は密輸出ということで没収されてしまいます。(実際に没収された人もいたらしい)
そこでカモフラージュを計画しました。昼間の行事で日本人墓地の清掃作業を行ってきたのですが、そのときに使った大量の(泥んこの)軍手を段ボール箱に入れて持ち帰って来ていました。それぞれ仕入れたカニやキャビアをこの軍手の中に押し込み、「軽そうに箱を持つような」演技まで付けて、みごとノーチェックで乗船に成功!
帰国して家族の前で意気揚々と開けた缶には…「イワシ」が入っておりました。
いやロシア人恐るべし。キャビアも泥臭くて食えたものではありませんでした。
写真は4月の特売商品、ラス・スーパーフライさんのインドネシア産ワタリガニ「パスチャライズ・クラブミート」。454g入りとかなり大きな缶でお値打ち価格です。色は薄いが味が濃くジューシーで、サラダやパスタをはじめ、さまざまな調理にお使いください。
ジャンクなお寿司食べもの
20120326
諏訪に行く用事があり、ついでに「スシロー」でお昼を食べてきました。休日の昼時とあってお客さんはよく入っていました。
回転寿司の記事は以前にも書きましたが、どなたもご存知の通り高級店と100円店とに二極分化している中、不景気感に伴って高級店の値付けがだんだん低くなっているのが感じられ、財布の負担は軽けれどちょっと寂しくも思います。
(当然ながら、それなりにネタ質の低下を伴うってことですからね)
安いほうの店で私が好んで食べるのは、いわゆる「ジャンク」なネタです。伝統的なお寿司には使われることのなかったマヨネーズ、揚げ物、肉類、などを使ったものが、この分野では立派に市民権を得ていろいろなお店のメニューに定着しています。
スシローにも豊富なジャンク寿司メニューがありますが、この日食べておいしかったのは「サーモンバジル」。サーモンにチーズとバジル風味のマヨネーズが乗り、焙られています。失敗したのは「かにカマ天」で、そもそも食べにくいし、揚がり方がちょっと油まみれでいただけなかった。
お肉ものでは「牛塩カルビ」はまあまあ、「焼豚ねぎまみれ」は以前食べて感心しなかったので今回は手を出しませんでした。「豚角煮」や「茄子と肉味噌」なんてのもありましたが。
軍艦巻きにツナやカニカマ等のサラダを乗せたものは既に定番ですが、中でも「コーン」は大好きで、皿が回ってくるとついつい手に取ってしまいます。ホールコーンをマヨネーズで和えただけのネタなのに、お店によって随分味が違うのですよ。たぶんマヨネーズが違うんでしょうけれど。(スシローのは、うまい方だと思う)
ずっと前に展示会で「フォアグラ」のお寿司を試食したことがあります。まだフォアグラの味なんて知らない頃で、ここまで来ればシャリとの相性なんてあまり関係ありませんね。さすがに100円では出せないでしょう。
こうしてみると、サンドイッチの具になりそうなものだったら、だいたい酢飯にも合うってことですかね…いや、ジャムやあんこみたいな甘味は別でしょうが。まだ世に出ていない新ネタの開発を、家でも研究してみたら面白いかもしれません。
AOCのブランド戦略(続き)しごと
20120322
この裁定の意味するものは、ロックフォールの品質ブランドを守りながら、さらなる増産(とそれに伴う世界進出)を可能にする、というものでした。
前述の3か条を守りさえすれば、R村以外の土地でも「ロックフォールチーズ」を作ることができる、というのがミソです。R村のカビを種とし同村の羊と同じ品種の羊乳であれば、そして3ヶ月間R村の洞窟に貯蔵し熟成させれば、れっきとしたお墨付きがいただける。もちろん出来上がりの品質は厳しく問われるわけですが。
現在ロックフォールを生産できる地域は南フランスの一帯に広がり、その総面積はフランス全土の20%くらいにまでなるのだそうな。そしてR村には3ヶ月間大量のチーズを貯蔵する莫大な保管料が流れ込む素晴しい?仕組み。ふーん、こんなこと、想像しませんでしたなあ。
ワインの「シャブリ」でも同じような事が行われているそうです。昔のシャブリ地区中心部には「グラン・クリュ」という特級格付けが与えられ、その外側には1級シャブリ、さらに外側には並シャブリ、プティシャブリと、呼称認定地域は今やどんどん広がっており、世界中で増大する需要に対応しています。
これらの事例は、消費者を一種の飢餓状態に置きながら徐々に新規参入を増やしていき、最終的には質でも量でも市場を制覇するあっぱれな戦略を示しています。言ってみれば「伝説的」に高品質な生産品を、ブランドイメージを落とすことなく増産していくための物語を、AOCという権威付けの仕組みを使って紡いで行くわけですね。
こうした考え方を応用して、とても売りものになりそうもなかったある地場の焼酎を、売り切れに導いた話もされました。まあここまで来ると、消費者の側から見れば「本当にこれでいいの?」という感じも、無きにしもあらずでしたが。あとは、山梨vs長野のワイン戦争の話とか。(これについてはちょっと時間が足りず、もう少し詳しく聞いてみたかった…)
とかくソムリエの講演というとワインの薀蓄話を思い浮かべますが、ワインの話でなくマーケティングの話で、大変興味深く聞くことができ、ためになった講演会でした。地域おこしに大いにヒントになりそうです。
AOCのブランド戦略しごと
20120320
更新がだいぶ滞ってしまいました。少し前のことで書いてみたいことがいろいろありますので、思い出しながら書いてみます。
先日は、長野県食品問屋連盟の総会で松本へ。マスターソムリエの高野豊さんの講演がありました。日本ソムリエ協会の協会の役員も務める著名な方であります。題して「食品のブランド化、その先進国フランスに学ぶ」。
講演は、ロックフォールチーズの話から。皆さんご存知の、最も知られたブルーチーズです。私も大好物!フランスのロックフォール・シュール・スールゾン村の洞窟で羊乳から生産され、世界中の一流フランス料理店でもまず間違いなく用意されています。
チーズの世界でロックフォールは青かびチーズの代名詞としての地位を確保しており、完全にブランド化されていると言っていいでしょう。
ここでちょっと考えてみます。フランス、日本、アメリカ、中国香港、その他あらゆる国のレストラン、食料品店に置かれているロックフォールチーズは、いったいどれほどの量になるでしょう?フランスの一小村で、こんなにたくさんの高級チーズを産出できるものでしょうかね。
原産地呼称認定制度(フランスではAOCまたはAC)というものがあります。ワインやチーズ、鶏肉などの産地と品質を公的機関によって保証する制度です。たとえば「ACブルゴーニュ」とラベルに記されたワインであれば、少なくとも産地やぶどうの品種、製法などが決められた基準の範囲内にあり、規定外のぶどうが紛れ込んだりしていないことを意味します。このお墨付きによって、フランスワインはその品質(の箔)を世界中に認めさせることに成功しました。チーズについても然りです。
1960年代に「ロックフォール」の偽物が大量に出回りました。ロックフォール・シュール・スールゾン村では危機感を抱き、偽ロックフォールの販売差し止めを求めて裁判を起こしました。その裁定が(高野氏によれば)いかにもフランス的で、見事な販売戦略に結びついているというのです。
その裁定は、
1)ロックフォール・シュール・スールゾン村の洞窟に生息する青かびを種として使い
2)同村で昔から飼育されている品種の羊乳を原料とし
3)同村の洞窟に3ヶ月間熟成させたブルーチーズ
にのみロックフォールの呼称を認める、というものでした。
(続きます)
追悼 竹中松造さんしごと
20120315
3月11日に急逝された当社取締役、竹中松造さんの葬儀が昨日執り行なわれました。多くの方々にお世話になったことに感謝し、web上ではありますが御礼申し上げます。
葬儀で弔辞を述べさせていただきました。(一部略)
突然の訃報に、愕然とし、痛恨の極みです。入院されたときにはそのご様子から、心配するほどの病状ではなく1週間くらいで復帰をされるのだろうと思っておりました。ところが数日後容体が急変し、その時にはもはやお話しすることもかなわず、そのまま帰らぬ人となってしまわれました。
満59歳というあまりにも早いご逝去に、ご家族の悲しみはいかばかりかと考えると、お慰めする言葉もなく、ただ運命の無常を嘆くしかありません。
竹中さんは昭和51年11月に伊勢喜に入社され、以来35年の長きに亘って誠実に勤務されました。飲食外食業のお客様をお得意先とする営業マンとして先頭に立って活躍し、取締役業務用食品部長という重責を担ってこられました。
熱意と責任感あふれる仕事ぶりはお得意様や仕入先様から深く信頼され、また部下の社員たちには厳しくも温かい指導ぶりで慕われ、その一丸となったチームはまさに「竹中一家」と言いたくなるような団結を誇っておりました。日頃から口数の多いかたではありませんでしたが、多くの後輩社員たちが竹中部長の背中を見ながら一人前に育ててもらったと言っていいでしょう。
いよいよ仕事上でも円熟期を迎え、会社の大黒柱としてこれからもますます活躍していただけるものと信じて疑わなかっただけに、会社にとって貴方の急逝は大変な痛手であり、私どもは大きな喪失感に包まれています。しかし貴方の立派な仕事や業績は、苦楽を共にしてきた私たちの記憶に、そして当社百年余の歴史にしっかりと刻み込まれて消えることはありません。
ランニングを愛好し、休日など真剣な表情で前を向いて走っているお姿を近所に住む私もしばらく前までたびたびお見かけしました。息子さん娘さんはそれぞれお近くに所帯を構え、ご家族仲良く暮らしておられます。お孫さんたちに囲まれた楽しい日々を長く過ごされる筈でしたのに、さぞ心残りであったことと思います。これからは高い空からご家族を、私どもを見守って下さることでしょう。心からご冥福をお祈りして弔辞といたします。
竹中さんどうか安らかにお眠り下さい さようなら
平成24年3月14日
株式会社 伊勢喜 代表取締役社長 春日俊也
春近し日々雑記
20120306
この辺りでは日曜日から足掛け3日に亘って結構な雨降りでした。春の嵐、と言ってもいいような。
それでも今日の昼過ぎからは久しぶりに太陽も顔を出し、昨日までとはうって変わって暖かな日となりました。すでに暦も3月を迎えていますが、ひと雨ごとに春が近づいてくるような感じがします。
家には妻が数日前どこからか買ってきた桃の枝が。そのときはまだ全くのつぼみでした。これがまあ見るたびにふくらんできて、今日はいくつか花が開きました。
何年ぶりかの寒い寒い冬でしたが、それもどうやら終わりですね。
私たちの仕事の上でも、1月2月の商売といったらもう、それは静かなものですが、3月になるとようやく荷物も動き出します。折りしも異動の季節、卒業や転勤など、人の生活の節目には、お菓子もご馳走もつきものですからね!加えて当地では、高遠のお花見の準備も始まってきます。
何よりも暖かくなって人の心が明るくなることが嬉しい3月です。当社の決算月でもあり、ここで今年度最後のスパートをかけていきたいものです。
モーツアルトの午後音楽ばなし
20120304
毎年この時期には伊那で「音楽史コンサート」という催しが開かれ、小学生から地元で活動するプロの音楽家まで、愛好者たちが日頃の成果を発表する貴重な機会となっています。私も何度か指揮者として出演させてもらっています。今日の午後はそのコンサートが行われました。
今年のお題は「モーツアルト」。ピアノ連弾、弦楽5重奏、歌、フルートなどさまざまな形態で大作曲家のさまざまな姿に迫ります。私は「ホルン協奏曲第3番」を指揮、「レクイエム(抜粋)」のティンパニを演奏し、それぞれで楽しく充実した時を得ることができました。
ホルン協奏曲は私のオーケストラ仲間で家もご近所、仕事上でも付き合いの深いM君がソロを吹きましたが、難しい楽器を軽やかに見事に操って聴衆から大きな拍手を浴びていました。
モーツアルトはクラシック作曲家の中でもひときわ輝く特別の存在となっています。わずか35年の生涯に600曲以上の作品を残していますが、その数の多さで評価されているのではなく、他の誰とも違う彼にしかない魅力がファンを惹きつけてやまないと言われているのです。
モーツアルトの音楽は基本的に明るく平明で、聴く人の耳に心地よく響きます。その譜面は見たところそれほど複雑ではありませんし、特別なハイテクニックを要求されるわけでもないのですが、作りがシンプルが故に小細工やハッタリが許されず、本質に迫った音楽表現が求められます。
プロの音楽家でも、モーツアルトをきちんと演奏できなければ尊敬されない(たぶん)のです。ましてやアマチュアにおいては、その境地に至る難しさは、やればやるほど痛感するものがあります。
私が素人指揮をしていて良かったと思うのは、彼の多くの作品にじかに触れる機会が数多く得られたことです。まことに残念ながら、モーツアルトの曲に打楽器の出番はそう多くありません。私の音楽活動が打楽器奏者としてだけだったとしたら、大学時代から今まで演奏機会があったのは僅か2曲、オペラ「魔笛」の序曲と今日のレクイエムのみですね。まあ、たまたま巡り会わせがそうだったということですけれど。
ところで、昔見て笑った小話。学校の音楽のテストで「モーツアルトは少年の頃、何と呼ばれていたか」正解は「神童」でしょうが、友人はこう答えた。
「モーちゃん」