悲愴の銅鑼音楽ばなし
20181118
少し台湾から離れて、音楽の話など。。
先週の日曜日、伊那フィルの年一回の定期公演がありました。曲はシューベルト「未完成」とチャイコフスキー「悲愴」という、どちらもロ短調の暗めのプログラム。私は未完成のティンパニと、悲愴ではシンバルと銅鑼(どら)を演奏しました。
未完成はまあいいとして、悲愴ではシンバルが4発、銅鑼が1発しか出番がありません。50分近い曲でこの音符の数はいくら何でも少ないのですが、一つひとつは実に存在感を持った音として書かれていて、少ない労力で最大の効果、のお手本のような曲です。だから、やり甲斐はありますね。
来場した人たちのアンケートでも「シンバルが恰好良かった」というものが3通、そして思いがけないことには「ドラが恰好良かった」も2通ありました。いや皆さん、お目が高い!普段アンケートで打楽器のことなぞ、あまり書いてもらえないのですよ。
さて悲愴の銅鑼の効果的な使い方は、多くの打楽器奏者たちを強く惹きつけています。第3楽章の嵐のような行進曲が終わり、第4楽章で切々と歌われる悲しみ。その慟哭がクライマックスに達し、徐々に力が抜けていく場面で鳴るたった一発の銅鑼は、死の予告、絶望を思わせる実に印象的な暗い音なのです。
楽譜にはP(ピアノ、弱く)と書かれています。といって、決してか細い音ではなく、深く遠い闇の奥底から響いてくるような音。今回直径40インチの大型の銅鑼を前日から借用して使いましたが、慣れない楽器で思い通りの音を一発勝負で鳴らすのは、演奏者としてはかなり緊張するところです。叩いてしまったらもう修正できませんし。
元在京オーケストラの打楽器奏者(故人)のインタビューにありましたよ。「人生の終わりには、悲愴の銅鑼を本番で叩いて、そのままステージで息絶えることができれば本望」ですって。もちろん本気でおっしゃっていたわけではないでしょうが、そのくらい思いの深い一発であることをぜひ察していただければ。