的を得る日々雑記
20180615
風呂から出てTVを点けましたら「プロフェッショナル 仕事の流儀」をやってました。番組はもう終わりに近いところでしたが、今回は辞書を作る人が主人公。後から調べたら「飯間浩明」さんという方でした。
ちょうど今「辞書になった男」(佐々木健一著)という本を読んでいる最中なのです。見坊豪紀・山田忠雄という二人の国語学者の足跡をたどるもので、出版された時は話題になりました。大変面白い本ですが、飯間さんの仕事がこの本の内容とマッチングしていて、これは最初から観ればよかった!と思いましたが後の祭りです。
番組の最後では、新しい辞書を編纂中の飯間さんが「的を得る」という言葉をどう扱うかが描かれていました。
的は「射る」ものであり「得る」ものではない。「的を得る」というのは誤った用法であり、「当を得る」と混同されている…私はこれまで、ずっとそう思っていましたよ。我が家の広辞苑にも、「的を射る」は載っていますが「的を得る」は載っておりません。「得る」を誤用としたのは上記の見坊豪紀氏だそうです。
飯間さんはこれに異論を唱えます。「得る」は「捉える」に通ずる。古い文献を調査して「的を得る」が使われた具体的な用例を探します。そして何と、250年前の用例を発見するのです。由緒正しく使われているのなら、一般的に「射る」が主な使い方ではあるものの「得る」を誤用とまでは言えません。
編集会議ではこの言葉の扱いを巡り、延々5時間にわたり議論が戦わされます。飯間さんはこの言葉の説明を、何度も何度も書いては消し、書いては消します。「得る」も正しいと強調すれば、これまで「射る」を使ってきた人たちの気持ちを損なってしまうかもしれない。
悩んだ末、彼は語釈に「得るは誤用ではない」とは入れず、しかし「『射る』も『得る』も特に戦後広まった言い方」との一文を付け加えました。そして「得る」がこれまで人々に使われ生きてきた言葉だという思いを込めたのです。
うーん、唸ってしまいますね。一つの言葉にこれだけのドラマ。辞書の持つ無機質なイメージが変わってきませんか?