風前の灯日々雑記
20220207
北京オリンピックが始まっています。昨日はジャンプ・ノーマルヒルで小林陵侑選手が見事金メダル。この競技で長野五輪以来の「金」だそうです。大本命と言われきっとプレッシャーもあったのだろうと思いますが、それも何のその、素晴らしいジャンプを2本揃えた実力は大したものでした。
さて長年の五輪開会式ウォッチャーとしては、これを語らないわけにいきません。世間ではおおむね好評のようですね。著名な映画監督チャン・イーモウ氏が前回の北京五輪(夏)に続いて演出した開会式は、なるほどと思う場面もいくつもありました。
二十四節気の映像によるオープニング。何となく日本独自のものかと思っていましたが、中国由来だとは知らなんだ。考えてみれば当たり前とも言えます。映像は、旅客機が着陸前に流す到着地のプロモーションビデオを洗練させたようなものかな。
緑色の長くしなやかな棒を集め風にそよぐ草を表現したり、青と白で氷雪をイメージさせたりと、ヴィジュアルに訴えかける力はさすがです。半年前の東京五輪がミクロのパーツを並べた(ピクトグラムはその典型)のに対し、会場の広さを生かした演出であったと思います。
私にとっては入場行進の音楽が、今回最大の不満でした。小中学校の鑑賞教材クラスのクラシック有名曲を羅列しただけで何の必然性も工夫もなく、見ていて気恥ずかしくいたたまれない気持ちになりました。中国に、こういう場面で人の心を捉える独創的なオリジナル曲を書ける気鋭の作曲家がいない筈がないのに。
さて注目の聖火。平面的で雪の結晶のような聖火「台」に、点火するのではなくトーチを突き立てたというアイデアに世界中の人が驚いたことでしょう。この灯は聖火台の中にあってあまりにも小さくか細く、「風前の灯」という言葉を連想させます。イーモウ氏は「脱炭素社会のコンセプトを現したアイデア」みたいなことを言っているそうですが、さて、それだけでしょうか。
私は、オリンピックの象徴たる聖火がまさに風前の灯になっているのだ、と感じました。アスリートの祭典、平和の祭典であった筈のオリンピックは、かつてないほど商業主義と国威高揚プロパガンダの場になり、自由や平和が脅かされ分断された世界の中であまりにも無力です。これからの五輪の存在意義、行くべき道が問われているいまを表しているのではないか、と。
イーモウ氏がそんなことを考えたかどうか知る由もありませんし(万が一そうだったとしても、言うわけないですよね)きっと見当はずれなのでしょう。しかし多くの矛盾に目をつぶりながら行われる北京五輪に対する隠れたアンチテーゼ、それが風前の灯なのかなあと勝手に思っています。