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大川小学校の悲劇日々雑記

20191020

先日仙台へ出張があり、久し振りに東北地方を訪れ、時間をみつけて仙台から1時間ほどの石巻市に行ってみました。東日本大震災で大きな被害を受けたところです。津波で大勢の児童と教員が亡くなった大川小学校の現場を見てみたいとずっと思っていました。

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(Wikipedia) 2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う津波が本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を遡上してきた。この結果、河口から約5kmの距離にある学校を襲い、校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。スクールバスの運転手も死亡している。学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事となった。
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石巻駅からタクシーでたどりついた場所は、川と山に挟まれた小さなスペースでした。コンクリート造りの廃墟がポツンと寂しげに残っています。周囲に建造物は何もありません。曲線を多用した、建設当時はなかなかモダンな建物だったのでしょう。


学校から裏山の近いことに、たいへんな衝撃を受けました。(写真3)校庭で津波が来るまで何十分も鳩首協議を続けている間に、何で、何で、この山に登らなかったのか。小学生の足でも、簡単に登れるではありませんか。大津波警報はすでに出されていました。河口から4㌔しかないこの学校まで津波が来ることを、どうして想像しなかったのだろう。


関係者らしき方がいて、少しお話をしました。長野県から来たというと「遠くから来ていただいてありがとうございます」と丁寧に挨拶され、あちこち指差しながらあの日何が起こったのかを教えていただきました。(写真2参照)


…あの窪みの場所で40人の子供たちが遺体で見つかった。津波の勢いで跳ね飛ばされた子が一人助かった。白い杭が立っている高さ(写真3の右側)まで津波が来た。学校の周囲は民家がびっしり立ち並んでいたが、全部流された。大津波が引いたあとで別の場所からここまで流されてきた中学生がいて、校舎に一晩しがみついて翌日救助された。…


この方は、注意深く言葉を選びながらも、無為無策ゆえに多くの犠牲者を出した大人の責任を訴えていると感じました。私は校舎と裏山を見ながら涙があふれてきて、ここはこのような悲劇が起こってよい場所ではない、こんなひどいことが絶対にあってはならないのだ、と強く思いました。


待っていてもらったタクシーでの帰り道、運転手さんは「まさかこんなところまで津波が来るとは誰も思わない、結果論ではないか。死んでしまった先生たちの責任を問うのは無理ですよ」と言っていました。なるほど地元でもいろいろな考え方があるなあ、とお聞きしました。まったく偶然ですが、県と市の責任を認める最高裁の判決がこの日、私が帰途についてから示されたのでした。


廃墟となった校舎を残しておくのに賛否両論があったと聞きますが、震災から8年半がたって、私のような者でも現場に立って思いを巡らすことができることに感謝したいと思います。

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