92年前のメダリスト (2)日々雑記
20240805
西竹一の絶頂の時代は長くは続きませんでした。兵器の開発が進み、戦車やオートバイが当たり前のように使われるようになって、騎兵の存在意義がだんだん薄れてきました。西も馬から戦車への乗り換えを余儀なくされます。
軍の中も西の破天荒なキャラクターは認められ難くなってきたと想像できます。ロスに続くベルリン五輪では6位に終わった元金メダリストへの風当たりは強く、軍の中で冷遇されていきました。
太平洋戦争が敗色濃厚な1944年7月、西は戦車隊隊長として硫黄島の護りにつきます。ご存知の通り硫黄島は沖縄と共に日本の最後の激戦地となり、西も戦死を覚悟の上だったでしょう。いろいろなエピソードが伝わっています。(ただし、一部は後年の創作ともいわれる)
・激戦の前に一旦帰国した西は、引退し余生を送っていた愛馬ウラヌスの許を訪れます。ウラヌスは久しぶりの主人との邂逅に体を摺り寄せ、愛咬してきました、西はウラヌスのたてがみを一部切り取って、以後肌身離さず持っていました。
・硫黄島守備作戦では戦車が活躍できるような地形場面がなく、やむなく砲塔を外して固定し、砲台として使いました。騎兵出身で戦車を思う存分走らせたかった西には残念なことだったでしょうが、その砲撃の正確さは米軍の公式記録に残されています。損傷して戦場に残された米軍の戦車を鹵獲、修理し使ったともいわれます。
・負傷し捕虜となった米兵を尋問したとき、西はその海兵隊員が持っていた「早く帰ってきなさい。母はそれだけを待っています」という手紙を見ると「どこの国でも人情に変わりはないなぁ」と悲しい表情をして、その海兵隊員にできうる限りの看護を行ったが、看護も空しく翌日に西に感謝をしながら息を引き取ったそうです。
・米軍にもロス五輪の英雄だった西を記憶しているものが多く、「バロン西、我々はあなたを失いたくない。出てきなさい」と日本語で幾度となく西に投降を呼びかけたが、この呼びかけに西が応えることはありませんでした。
西がどのように戦死したかは諸説あり、正確にはわかっていません。圧倒的な劣勢の中、智将栗林忠道(松代出身)指揮のもと、硫黄島で日本軍がいかに戦い死んでいったかはさまざまな書籍や映画などで描かれていますので、まだ接していない方はぜひご覧いただきたいなと思います。
92年ぶりの日本馬術のメダル獲得を機に、以前から心に留めていた人物について書いてみました。wikipediaのほか、北大馬術部のホームページを参考にさせていただきました。緻密な取材と文章に感嘆しました。